木皿泉エッセイ ”ちょっとした奇跡”

ドラマを書いていると、ちょっとした奇跡が起こる時がある。たとえばテレビドラマ「すいか」を書いていた頃である。市場で買い物をした帰り、ふと足もとを見るとなんとスイカが落ちていた。

スイカといっても紙でできたもので、たぶん子供が色紙で作ったものらしい。でも丁寧なつくりで、裏もちゃんとスイカだった。ちょうど七夕だったので、その飾り物だったのだろう。笹から飛ばされて、今、私の足もとにあるのだ、と思うと何だか神様が下さったようなありがたい気持ちになり、持って帰った。

子供が作ったものには力がある。私はそのスイカを見るたびに、ノルマではなくただただ嬉しくて作っていた子供の頃が自分にもあったのだ、ということを思い出しがんばろうという気持ちになる。

こんなふうに、私はよく道で物をひろう。落ち込んで歩いている時、これもまた子供が作ったものだろう、金紙の勲章のようなものが落ちていた。小学生が学校で作った工作を持って帰る時に、はがれ落ちてしまったのかもしれない。でも私には、さえない自分に贈られた努力賞のように思えて、やっぱりこれも家に持って帰った。

何もないところから作るという仕事は、案外大変で、そういう時はきっと何かにすがりつきたくなっているのだろう。

「野ブタ。をプロデュース」というドラマを書いている時は、朝、玄関を開けると大黒さんがパカッと二つに割れて落ちていた。高価なものではなく、七福神のセットとして売られている、そのうちのひとつらしい。

ダンナが脳内出血で六ヵ月入院し、ようやく自宅介護を始めたばかりの時で、そのうえ連続ドラマを書かねばならないというプレッシャーにつぶされそうになっていた。

私たちは、わが家に大黒さんが来た、というだけで何だか目の前が開けたような気がしたのを覚えている。

家にあるものは、たいていもらったものか買ったものだ。それらは、いつの間にか普段の暮らしになじんでいる。だが、ひろったものには力がある。なにせ、私をめがけてそれはやって来たのだからと、私は勝手に思い込んでいる。土人形の大黒さんは、店に並んでいたら私の趣味ではないので、絶対に買わないような物だった。今は一番いい場所に飾っている。

自分で選んだのではなく偶然にやってきたものは、小さな枠におさまりきらない、めぐりあわせという大きな力を感じる。「ハル」に出てくる赤いボタン型カメラもそうだ。元は誰かが水中に落としたものを、子供のハルが拾ってきたものだが、それはめぐりめぐってハルとくるみをつなぐ、とても大切なものとなってゆく。

「ハル」を書いていて、やっぱり小さな奇跡はあった。なかなかキャラクターが動いてくれず、私自身「ハル」みたいな男の子が本当にいるのだろうかと疑心暗鬼になっていた頃だった。忙しくて夕食の用意が間に合わず 、お好み焼きのデリバリーを頼んだ。やって来た男の子を見て驚いた。「ハル」と書かれた名札をつけていたからだ。今、まさに私の頭の中にいるはずの「ハル」が、ニコニコ笑いながらそこにすくっと立っていた。

何の根拠もないのだけれど、この話は最後まで書けると確信した。というか、私たちはこの男の子の話を書かねばならない。なぜなら、そういうめぐり合わせに出会ってしまったからだ。バカバカしい話だが、大まじめにそう思った。

昔は、創作は誰かの強い意思で作られると思っていたが、この年になると、それだけでは無理だということがわかってくる。出来上がってみれば、ゆるぎなく作品はそこにあるように思えるが、たぶん私も知らない奇跡が寄せ集まって出来ているのだと思う。〔了〕

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